じゆうなブログ

日々の素朴な疑問を中心に、得た情報を自分なりに解析して文章にしています。

夫婦の価値観が合わない場合に陥りがちなこと。

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価値観とは何か。こどもが生まれて夫婦関係を考える上で、改めてこの問題について触れなければならない機会が増えてきました。

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こどもを授かる前も夫婦間での価値観の相違というものは少なからず存在しており、しかしながら僕自身はこれを大きな問題と捉えることはありませんでした。

 


理由は明確で、一見価値観が近い人間同士でも、細かな部分で見ると個々様々な「モノサシ」によってそれが数値化されている訳で、他人と価値観が完全な形で一致するなどという事はあり得ないと理解していたからです。

 

 

しかし、こどもが生まれてからというもの、頻繁に嫁と衝突をするという事態が起こり、その原因を考えると、やはりこの「価値観の相違」に起因するのではなかろうか。という思いが強くなってきました。


では、今までさほど重要視していなかった「価値観」という名のモノサシが、何故衝突の原因になっているのか。それは、大切なこどもを授かった以上、そのこどもを育てる上での夫婦のあり方、仕事観、習慣などを改めて見直す必要があると僕自身の気持ちの変化があったことと、

 

 

恐らく嫁側にも同じ気持ちの変化があった事で、今まで後ろに隠れていた「モノサシ」が互いに表面化し、子育てという名の大義の元に衝突を余儀なくされているのではないか。

 

というところまで現状整理が出来ている状態です。

 

 

そこで問題を解決するにあたり、改めて「価値観」という言葉の定義を調べてみようと思い立ち、ネットで検索していると、以下のような説明がありました。

 

 

 

価値感の意味

 

意味:物事の価値についての、個人(または、世代・社会)の(基本的な)考え方。

 

 

・・・・そのまんまですね。

 

 

まあ辞書は単語の意味を記述することが目的なのでその本質的な部分まで掘り下げて教えてくれる事は無いですがね。

 

話は脱線しますがこの辞書に書かれているような内容を、その言葉の上澄みだけをとって最もらしく子供たちに教える。というのが戦後から現在まで続く学校教育ですね。


これでマニュアル人間のいっちょ上がりという訳です。

 

ちょっと考えればですよ。「そもそも価値って何?」という部分に疑問を持つはずなんです。正に「木を見て森を見ず」。本質から意図的に目を反らされているようでもあります。

 

さて話を戻しまして、この辞書が教えてくれた事柄で最も重要なポイント、「価値」とはそもそも何なのか。また「価値」はどのようにして決定されるのか。という部分を考えてみます。

 

価値とは何か。


まずは分かりやすくモノの価値について考えてみましょう。

 

モノの価値を考える上で絶対に外せない話がブランド品ですね。ブランド品はその商品が使用者にもたらす実用的なベネフィット以外の所で付加価値がついています。

 


この見えない付加価値とは何か。その多くは「このブランドを持っていると他人に自慢できる」というところなどにあると思います。

 

では何故他人に自慢が出来るのか。

 

これは簡単ですね。ブランド品は他の商品と比較すると、圧倒的に価格が高い。つまりそのブランド品を持っている=高いお金を支払って購入した。所謂経済力を他者へ誇示できるわけです。

 


ここまでは誰でも一度は考えたことがあると思います。ではもっと踏み込んで考えてましょう。

 


そもそも経済力があるという価値を持たせている存在は何か?

 


それは「お金」です。理由は簡単で経済力=お金と現在では定義されているからです。

 


では、世の中にお金という概念が存在しない場合を想像してみてください。

 


同じバッグでも、「壊れにくくて長持ちする」という実用性という部分の価値。間違い無くこちらに重きが置かれるのではないでしょうか。そもそも経済力の誇示という概念もお金の消滅と共に消え去っているため、そこに価値はありません。

 

 

今回は、分かりやすくするためにモノの価値を引き合いにださせていただきましたが、人間がだれしも持っている「価値観」というものも、基本的な考え方は同じです。

 


人間の価値観は、人によってもたらされます。様々な人に接することで、自らに「基準」が出来上がり、その「基準」が価値観を形成していくのだと考えます。

 

つまり、「価値」というものはその価値を図る「基準」があってはじめて成立するものであり、その基準自体が変われば、価値の大小もそれに合わせて変化するものという結論となります。

 

さあ、更に話を戻します。今回このことを考えるキッカケとなった冒頭の、「価値観の相違によって他人と争う」という事が如何に不毛な事か、ここにきて大方理解が出来てきました。

 

そもそも他人からもたらされたもの。それが価値観だとした場合、正に今自分の意見だと思い込み偉そうに人に語っているその言動さえも、第三者から植え付けられた基準を元に発される意見であり、そこに「価値がある」と錯覚しているにすぎません。

 

大切な事はその自分が持っている基準というものが、いつどこで何によってもたらされたのか。この部分を掘り下げていき、その基準そのものを、今の状況に合わせて変える事は出来ないものか。ということを客観的に考えてみることだと思いました。

 

誤解のないようにいうと、僕は基準自体が無意味なモノであるとは考えていません。基準が無ければ生きるための様々な選択を行うことが困難になります。ですので、反面非常に大切なことであるとも思っています。

 

その中で、果たして今この基準に固執する必要があるのか。という事を考た上で、もしそうでないのであればその考えを改めるということも、今後自分または家族が成長していく上で、意識せざるを得ないフェーズに来た。という形で理解しています。

 

 

余談ですが僕の過去を振り返ってみると、この基準に固執しまくっていた時期が最も暗黒の時代でした。

 

「自分はこうなんだ」「社会はこうあるべきだ」という、自らが創り上げた基準に縛られ、結局は全く思い通りに事が進まず、さらにその基準に固執するという悪循環。この原因に気づき改善したところから、物事が好転してきたわけですが、また同じことを繰り返すことろでした。これはこどもが僕に気づかせてくれたんだと思います。きっと。

 

最後に、こんな事をいうと元も子も無いですが、僕自身こどものためにこのような小難しい事をアレコレ考え、悩んでいるのだと思いながらこの記事を書いていたのですが、当のこども側はそんなことは全く求めていないのかもしれませんね。



それは親である僕の単なる押し付けでしかない。

 


0歳のこどもに基準があるとすれば、親に愛されているかどうかの判断基準。その基準は「両親の笑顔」これなんでしょうね。

 


結局答えはシンプルだったという訳です(笑)

 

最後までお読みいただきありがとうございます。